8月17日のバルセロナの”テロ”の今までの整理

8月17日のバルセロナの”テロ”の今までの整理

2017/08/19風景をかんがえる

観光地でのトラックの暴走。何名かの観光客(13名と報道)が死亡。大勢(報道では100名ほど)の負傷者が出る。警戒体制が敷かれたくさんの人々が現場から避難する…。
↑ここまでは事実。

車に”なぜか”残された実行犯のパスポート。実行犯として報道された人物はまた”イスラム系”。人質を取って”トルコ料理屋”へ立て篭もり警察と交渉中であるという詳細な”誤報道”。”声明の前”にテロであるとの首相の宣言。その後のISからの犯行声明。”詳細の分からない”前日の別の場所での爆発事件が”テロに関連”するとの報道。その他の別の場所での事件の実行犯の”五人が射殺される”との報道。
↑ここまでは報道されたこと。

現場に集まる数々の花とロウソク。攻撃を受けたことに怒りを示す人々が埋め尽くす広場。テロリズムと宗教は無関係だと表明するイスラムの人々。今こそ国や人種や宗教を超えて欧州が一つになってテロには断固屈しないと人々の団結のムード…。

↑ここまでは事件後の人々の反応。

イギリスの欧州からの脱退。カタルーニャ州で10月に行われる独立への投票…。

↑これは政治的な背景

イマジンを歌う人々の心は素晴らしいとは思う。僕も共に歌いたいが、その前に確認すべきことがいくつもあるのではないか。事実の部分はほんの少しだ。

共感することは大切だが、感傷的になると人はあまりにも単純な因果関係に絡め取られていく。人は少ない事実から判断して頭の中で、自分が見たいストーリーを作るものであるという性質を忘れてはならない。
実際に起こった事実と、それに付随して誰かが流した情報との区別は、この情報化社会ではとても困難だ。直接触れた事実以外では、報道されたことでしか我々は裏側を推測することができないのである。そして報道というのが必ずしもニュートラルであるとは限らないことも知っておかねばならない。
ある事実をどのように読み取るのかというインターフェイスの部分で、必ず様々なバイアスが入る。それに加えて、情報を流す側や流させる側の思惑や意図が入ってくることもある。
提示された事実は点であるが、それは誰もが線として描けるものとして用意されていることは、政治においては歴史的に繰り返されてきた常套手段である。
悲しい出来事であることは間違いないし、それを悼む気持ちは大切だ。しかし感情的な側面にだけ心を奪われて、ムードだけでその原因を判断してしまうことは、非常に危険なことでもあることも一方で留意しておかねばならない。