モエレサマーフェスティバル

モエレサマーフェスティバル

2017/07/18風景をつくる

モエレ沼公園にて

 芸術と宗教との接点について考えるきっかけになったのは「モエレ沼公園」という場所で2013年に取り組んだ作品であった。モエレ沼公園は札幌市の東部にある。少し市内からは離れているのだが、素晴らしいランドスケープが広がる公園だ。大きく広がる芝生の大地。宇宙まで突き抜けそうな広い空。視界を遮るものはほとんどない。その中にプレイマウンテンと呼ばれる土と石段で作ったピラミッドがそびえたっている。その反対側には残土を積み上げてつくったモエレ山と呼ばれる象徴的な小高い丘がある(9-1)。

 このモエレ沼公園は、特別な思い入れがあった。なぜならばこの公園をデザインしたのは、イサム・ノグチというアーティストだったからである。イサム・ノグチは彫刻家として知られているが、ランドスケープデザインの分野でも名を馳せている。彼は作った彫刻だけでなく、それが置かれる空間そのものも作品として考えていた。そのイサム・ノグチが晩年の最後に手がけたのが、このモエレ沼公園であった。
 モエレ沼公園は元々はゴミの埋め立て地だった。ちょうど河川の曲がり角に位置するこの沼は三日月のような形をしている。ここは当時の産業廃棄物の集積地となっていた。その頃の札幌市長の政策でここを公園にすることが決まり、イサム・ノグチを呼んで場所の視察をした時、彼は荒れ果てたこの場所を見てこうつぶやいたそうだ。

「この場所には形(フォルム)が必要です。それは私がやるべき仕事です。」

 混乱した眺めの土地に秩序を与えるには、芸術的な形(フォルム)は力を持っている。芸術をもって土木的な外科治療を施すのがランドスケープデザインの本来の仕事だ。彼は公園全体を彫刻作品にすることで、場所を再生させることを宣言したのだ。結局、彼はこの公園の完成を見ることなしにあの世へ行ってしまったが、その後完成した公園は素晴らしいランドスケープが広がる場所になった。

 そんなモエレ沼公園で、1万人の人々がやってくる花火フェスティバルが2012年に開催された。地元の実業家の方々が地域を盛り上げたいと有志で行われていた取り組みで、その第2回目が2013年の7月に実施されることが予定されていたのだ。そこにアーティストとして参加してほしいという依頼が来たのである。

 私が現地調査に初めて入ったのは4月、寒空の札幌に降り立つことになった。4月の札幌はまだ雪が残っている。モエレ沼公園も案の定、雪が積もっていて、かなり風も強い状態であった。

この公園が札幌市内とは少し違った奇妙な天候になることだった。ここでは自然がとどまることなく動き、出来事を常に繰り広げている。プレイマウンテンを登っている間にも、だんだんと天候が変わっていった。そして登り始めた十分ほど前は晴天だったにもかかわらず、頂上に着く頃にはすっかりと猛吹雪になっていた。

 あたりには誰もいない。凍えそうになりながら頂上付近で身をうずめていると、東から白い煙のような雪がゆっくりとやってきて西へと抜けていった。その中で3羽の鷹が優雅に舞いながら上昇していくのが見える。吹雪は森の木々を揺らしながら形を変えていき、そこへ時折雲間から神々しい光が差し込むのだ。目を開けるのも大変な状況の中、その雄大に奏でられる自然のドラマに釘付けになった。

 ここは私たちの日々の生活のスケールを超えた自然の法則が働いていることを意識させられる「聖地」である。聖地とは大きな自然とつながる入り口であり、日常とは異なる時間と空間への想像力が働く場所だ。そこには明確な機能があるわけではないのだが、想像力を通じて私たち自身へとまなざしを向けなおす心のためのインフラになっている。私はイサム・ノグチが作ったこの場所の意味をその時に初めて理解した。

非日常と日常の反転

 モエレ沼公園は、建築やデザイン・アートなどに関わる者にとっては有名な場所であるが思っているほど知られていないようであった。ここはしないでもはずれにありアクセスも非常に悪く、札幌市民でも行ったことがない人はかなりの数居ると聞いた。

 フェスティバルの実行委員会の方々も、この場所の持つ価値をなんとか広めたいと考えていた。そのきっかけとして、一万人以上の札幌市民を集めるフェスティバルを開き、その価値を発信する。そんな目的で行われる花火は、他の場所で実施される花火大会と全く違うメッセージを持つ必要があると私は考えた。

 ここは大地がどこまでも広く、空が宇宙まで抜けている場所である。そんなスケールを持った場所では想像力は外へと拡散していく。自分が立つ大地は地球の丸みの一部であり、まなざしを空へとずっと引いていくと宇宙の中にその丸い地球が浮かんでいる。そんな広大なスケールまで想像力を広げると、隣の人と自分との細かい違いなどほとんど無意味に思えてくる。

 私たちの想像力はまなざしの届く範囲にどうしても影響される。狭い街の中にいると視線はどこかで止まってしまう。視線が止まるとおのずと想像力もそこで止まるのである。自分の小さな生活の範囲を時折抜け出して、まなざしをどこまでも遠くへ放り投げる体験は、自分の想像力をもっと長い時間軸の中に投じることだ。

 イサム・ノグチがそんなことを考えてこの場所を作ったかどうかはわからない。しかしこの大きなスケールを持ったモエレ沼公園には、日々の生活や身の回りの人間関係といった、小さな差異へとまなざしから私たちを解放する力強いメッセージを持っている。

 単なる花火ではなく、イサム・ノグチがここに込めた形(フォルム)をしっかりと「メッセージ」にするべきだと私は考えていた。もしイサム・ノグチのフレーズを借りるのであれば、「この場所にはメッセージが必要だ、それは私がやるべき仕事です」といったところであろうか。

 通常の花火大会は消費されて終わりになりがちである。会場に行き、花火を見て、帰る。その体験はライブ会場や音楽イベントへ行って帰るということと同じ並びの中に置かれてしまう。しかしこの場所で上げる花火は、そんな消費型の「イベント」という形で矮小化したものではないのだろう。

 この時のフェスティバルの総合プロデューサーをされていた阿座上雅彦さんも同じ想いを持っていた。
ここで花火を上げることに、単なるイベント型のフェスティバルの開催ではなく、地域で大切に守られて続いていくような「祭り」として意味を感じていたのである。

 「祭り」というのは本来特別な日だ。その1日は残りの364日の意味を変えてしまうぐらいの特別な日なのだ。非日常な時間というのは日常では届かないところへまなざしを向ける時間である。それによって日々の生活の中で忘れていることへの想像力を取り戻す心の掃除をする大切な日なのだ。

 しかし今は本当の意味での非日常がなくなりつつある。最近では毎週のようにSNSでイベントのお知らせを受け取り、街はいつでも祭りのような騒ぎの中で、刺激的な出来事にあふれている。非日常が日常化し、私たちの日常も非日常のフリをしている。そんな状況に私たちは少々疲れてきているのではないだろうか。日常がちゃんと日常であるためには、特別な時間を取り戻すことが大切だ。

■物語の中に入り込む

 最終的に提案したのは“物語花火”というアイデアだった。花火を見るために、このモエレ沼公園へ訪れるという構図ではない。一年に一度の特別な一日にここで起こる壮大な物語を目撃しにやって来る、そんな枠組みとしてフェスティバル全体をストーリー化出来ないかと考えていた。

 花火はメインの出来事ではあるが、その花火は物語の中に組み込まれる。花火の前後をちゃんと演出することで人々を物語の一部に組み込むのだ。その中でメッセージを受け取るだけでなく、自らがメッセージになるということが重要だと感じた。

 そこで「モエレ星の伝説」という物語(スクリプト)を用意した。この壮大なスケールの場所では、それにふさわしい神話のような物語が必要だ。しかもその物語は単なるお話ではなく、この場所の歴史や私たちの日々の生活とうまく接続させることで、忘れている大切なことを教えてくれる絵本のようなものにしたかった。人にとって大切なことは、全て子供の頃に読んだ絵本に書いてあったように思える。それを私たちは大人になるにつれて忘れていくのだ。

 この物語はモエレ沼にまつわるこのような伝説から始めることにした。モエレ沼には一年にたった一度だけ、宙から「モエレ星」が落ちてくるという言い伝えがある。それがこのフェスティバルが行われる今日だ。もともと大地の力がとても強かったモエレ沼は、様々な土地の精霊が姿を表す場所であった。その精霊たちがこの特別な日にだけモエレ星の力を通して大地から空へと帰ってゆけるのである。その時に宙には精霊たちが通る大きな光の輪が出来ると言い伝えられている。

 しかし、いつのころからかこの場所にゴミが埋め立てられるようになった。その時からだんだんと精霊は姿を消すようになり、モエレ星もついに降りてこなくなった。そして最後にこの場所にはヤミボウズという巨大な精霊だけが残ってしまった。

 ヤミボウズは人々の悲しみや苦しみが集まって大きくなった精霊である。日々の暮らしの中で、私たちが目を背けている悲しい気持ちや苦しい想い。それは空に昇ってこのモエレ沼へ集まってくるのだ。その人々のネガティブな想いが、一年間溜まり続けてヤミボウズの形になって、沼から姿を表す。ヤミボウズはずっと宙に帰ることが出来ず、この場所をうろついていた。

 しかし、ある日ここへ一人の彫刻家がやってきた。ヤミボウズの声を聞いた彫刻家は、この大地を治療するために、彫刻のように土を整えはじめることにした。彫刻家はそれを完成させたあと、力尽きて亡くなってしまったが、やがてここにはモエレ星がふたたび落ちてくるようになったのである。他の精霊たちも戻りはじめて、また宙と大地が出会うようになり始めた。今日はそんな特別な一日なのだ。

 そんなストーリーを作り、この物語を実際にやってくる人々が体験できるように色んな方法で伝える仕掛けをデザインした。絵巻物のように表現したモエレ星の伝説が来場者に配られる(9-2)。そして実際の会場には、物語の読み聞かせをする優しい女性の声をナレーションとしてライブで入れることにした。

 花火フェスティバルは夕方から始まるが、やってきた13000人の人々は芝生の上に丸いモエレ星が無数に落ちていることに気づく(9-3)。モエレ星は来場者と同じ数だけ落ちていて、それぞれが一つずつ手に取れるようになっている。

 このモエレ星には使い方がある。まずモエレ星を手にとって自分のこの一年を振り返って様々なことを思い出す。楽しかったこと、嬉しかったこと、喜んだこと。辛かったこと、苦しかったこと、泣きたくなったこと。様々なことを思い出しながら、次の一年に向けた「祈り」をこのモエレ星に書き込む(9-4)。

 書き込み終わると、靴を脱いで素足になる。そして芝生に立ってこのモエレ星の上に立って、大地に自分の「祈り」を届ける(9-4)。そうするとこのモエレ星が光を放ち始めるのである(9-5)。モエレ星の中にはケミカルライトが入っており、日が暮れてくるにつれてだんだんと光が強くなってくる。まるで大地に星が降り注いだような風景は、物語の中に自分が立っているような感覚を生み出すのだ(9-6)。

モエレサマーフェスティバル

■安全ではないものとの出会い

 物語は様々な形で体験になる。訪れた人々は入り口で、スタッフから毛むくじゃらのキャラクターを首にかけてもらう(9-7)。これはモエレ星が落ちるようになってから現れた星クズの精霊で、「ホシクラゲ」と名付けた。公園内にいる人は全員、このホシクラゲを首からぶら下げている。公園に流れるナレーションが、ホシクラゲは今は眠っているのでそのまま寝かせておいて欲しいとささやいている(9-8)。

 夕闇が迫ってくる頃、公園の中には大きな鳴き声が聞こえ始める。それはプレイマウンテンの裏側から姿を現した巨大な5体のヤミボウズの声である(9-9)。笛のようなけたたましい音とともにゆっくりとヤミボウズは風の中を進んでいく。

 この5体のヤミボウズは札幌のアーティストの磯崎道佳さんの作品だ。巨大なバルーンで浮かせた黒い巨人のシリーズを磯崎さんは以前から作っていたが、それをヤミボウズと名付けて、この物語の中に登場させたのである。5体のヤミボウズを作ってもらい、それぞれ形が異なり、一番大きなものでは全長17mものサイズになる。

 このヤミボウズは空中に浮いているので風に反応する。だから操作には人数が必要だ。その操作をする人々も物語の中に組み込むことにした。白塗りの顔をしてボロボロの黒布に身を包んだカラスの精霊で「ウレイビト」と名付けた。そのウレイビトが儀式のようにヤミボウズを引っ張って人々の間を練り歩いていく。

 真っ黒で巨大なヤミボウズがすぐそばまでやってきて、時折大声で泣き叫ぶ。そしてその周囲には恐ろしい姿をした精霊が無言で厳かに付き添っている。それはかなり恐ろしい様相ではあるが、危険な存在に見えないようにどこか悲しげでユーモラスなように見せた。

 子供達も対象にしていたフェスティバルであったのだが、案の定、巨大なヤミボウズが出てきた瞬間に何人かの子供達は泣き出した。お母さんに飛びついたり、お父さんの陰に隠れたりする子供もいた。こうした反応は想定済みであった。というよりそれを最初から意図していたのだ。

 小さい頃に恐ろしいものに出会うという体験を持つことには意味がある。今の社会はどこか安全で優しいものしか許さない空気が流れている。安心感が確保されている社会であることはとても大切なことであるが、一方でそれは安全でないものは何も無いというわけではない。この世の中には安全でないものや理解できないものに満ち溢れているのに、それにフタをして安全で理解できるものだけで社会を埋め尽くすことは、きっといつか歪みを生じるようになるのではないか。

 ヤミボウズは私たちが目を背けているそうした歪みを引き受けた存在として登場させたかった。理解を超えた恐ろしいものがこの世の中にはある。そしてそういう存在ともうまく私たちはやっていかないといけない。そのことを子供は早い段階で理解したほうがいいと思うのだ。そのための一つのトレーニングやイニシエーションとして、こうした恐ろしいものと向き合う体験が必要だと思うのだ。

 ヤミボウズは動物のように人々の間をうろつきながら、モエレ星に書かれた祈りを読みながら進んで行く。会場には音とナレーションによってヤミボウズを時折和らげて、物悲しく不思議な存在感になるようにしながら、物語が体験出来るように演出を工夫した。

 ヤミボウズが行進を続けている間、太陽はどんどん傾いていく。人々の間に散らばっていたヤミボウズは日没に合わせてパレードを終えて、星空が一番よく見えるプレイマウンテンの斜面に集まってくる。そして5体が一斉に宙に向かって鳴き声を発した時に、一発目の大きな花火が宙に上がるのだ。

 

■捧げる体験

 ここからは壮大な宙と大地との会話が始まり、ここにいる全ての人間はその対話を目撃する。一万発の花火が30分間、ノンストップで大地から宙へと打上られるのだ。音楽と光による大地と宙との対話を、私たちはヤミボウズと一緒に眺めている(9-10)。

 花火と共に流れる全ての音響は、上海在住の作曲家の林陽一さんとこの日のために作った。すでにイメージのついた有り物の曲ではこの壮大な神話のスケールにあわないため、抽象的で現代的な音で新たに世界観を作る必要があった。

 花火やレーザー光線、炎などの光の演出は全てコンピューターで制御されている。だから音楽の時間軸に花火と光のタイミングを綿密に合わせる必要があった。その30分をいくつかのパートに割って、それぞれに音と光の物語を当てはめる形で演出した。

 中でも私が演出としてこだわったのは、ちょうど開始してから16分が過ぎたあたりのパートだ。花火とレーザー光線が宙を明るく照らし、音響も最高潮に盛り上がるようにして、そこが前半部分の光と音の盛り上がりのピークとなるようにした。そこで全ての花火と光と音響をふいにかき消すのだ。そこから4分間の静寂の時間がやってくるようにした。

 先ほどまで人々の目には無数のきらびやかな光が飛びこみ、耳には大音量の音が飛び込んでいた。それが急にかき消されるとどうなるのか。目や耳の感覚は鋭敏に研ぎ澄まされたままなので、わずかな光やかすかな音に対して反応しはじめるのである。

 真暗闇の中、大地に光るモエレ星と宇宙の星。それらと遠くの町の灯りが一体化する。何も音がないように思える中で虫のささやく小さな音や、風が草原を渡っていく音が聞こえて来る。この静寂の時間にこの場所の自然の光と音が身体に入ってくるのだ。
 この4分間にもう一つ重要な仕掛けを入れていた。かすかな鈴の音が鳴りながら女性の優しいナレーションがこうささやく。「入り口であなたに渡したホシクラゲが目を覚まそうとする音が聞こえます。胸元のホシクラゲを手にとって優しく起こしてください。」という呼びかけが暗く静かな公園に響く。

 このホシクラゲの中にはモエレ星と同じようにケミカルライトが入っている。これをひねると黄色い光が灯るようになっているのである(9-11)。静寂の中で一瞬にして会場には13000個の黄色い光が灯る。それは先ほどまでただの人形だったホシクラゲに、命が宿ったような風景となるのだ。

 この4分間は一か八かの賭けであった。花火が終わってしまったと思って帰る人が出てくるのではないかという危惧の声があった。しかしこの黄色い光が一斉に大地に灯った瞬間、人々の間から大きな歓声が上がった。

 さっきまで空にまなざしを向けて花火を観ていた人々。しかし光が灯ることでその人々が一瞬にして互いがまなざしを交わし合う関係に変わるのである(9-12)。それはバラバラな人々が急に一つにつながったような感覚を生み出す。

 そして、また笛の音とともにゆっくりと同じ花火が宙に帰ってくる。同じように花火が上がるが、この体験の後に見る花火は、さっきまで見ていた花火とは意味が変わっているはずだ。全ての人の胸元で光り続けるホシクラゲの命は人々の手によって与えられたのだ。

 自分が物語の中に入り何かの役割を演じたことは、多分ずっと記憶に焼きつけられる。単に花火を見て帰るだけのイベントならば、きっと明日には忘れてしまうだろう。しかし全員が同時に小さな命に光を灯し、大きな風景をつくることに身を捧げた体験は記憶に刻まれる。人は何かを与えられたことよりも、自分が何かを与えて身を捧げたことの方が心に残るのである。

 30分間の花火は最後にクライマックスを迎えて消えていくが、その後も音楽と物語は続き余韻を残す。まるで絵本を最後まで読むように物語を告げるナレーション。その声はホシクラゲを持って帰って今夜の枕元において欲しいと語りかける。朝になるとホシクラゲはまたもとのように眠りについてしまうが、その間、公園に残されたモエレ星は同じように光り続ける。その力で宇宙へと帰っていくヤミボウズをきっと夢の中で見るだろう。公園中にちりばめられたモエレ星の青い光から、大勢の人が持つホシクラゲの黄色い光が分離して札幌の街へと消えていっても、物語はまだ続いていく。