[001]「風景がどこにでもあるとすれば、それは『世界』と同義語になるぐらいの広がりを持つ」
「まなざしのデザイン」第1章 見方を変える P12

目をあけてからとじるまで
生まれてから息をひきとるまで
私たちはなにかを眺めて生きている
その眺めをすべて風景とよぶのならば
人生とは風景の連続である

私たちはいついかなるときであっても
そしてどんなところにいたとしても
そのときそこにはかならず風景がある
世界そのものを見ることはできないが
風景によって私たちは世界を確かめている

しかし本当に確かめることができるのは
いまこの瞬間にある風景だけである
さっきあそこで見た風景はもう
いまここで見ている風景とはちがっている
眺めは常にうつろいながら変わっていく

風景はいつどこにでもあるものだが
同時にいまここにしかないものでもある
常にやって来ては過ぎ去る眺めの連続が
風景として記憶につながれていく
今の眺めと記憶の両方が風景なのだ

私たちそれぞれが見ている眺めと
私たちそれぞれの中にある記憶が
私たちのあいだで共有された時に
世界は私たちの内と外にあらわれる
風景は世界となり世界は風景となるのだ

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中